【過去の事例】4歳の災害関連死①―熊本地震

災害5日後の死

 リビングの半分近くを占めるスペースが、原色で彩られていた。その鮮やかさと、明るさに反比例し、悲しみと喪失感の深度が増すように思えた。

 遺品のひとつひとつが、幼い子をひとり逝かせてしまった家族のやりきれなさを物語っているように感じたのだ。

 目を引くのは、小さな仏壇の隣の真新しいピンク色のランドセルである。床には『アナと雪の女王』のキャラクターたちが描かれたマットが敷かれ、赤、ピンク、黄、オレンジ、青、紫と色とりどりの子ども靴が数足、置かれていた。オラフ、くまモン、ドキンちゃん、キューピーちゃん、プーさん、メルちゃん……。棚やテーブルには、数え切れないほどのぬいぐるみや人形が並び、壁には黄色と青色のワンピースが吊され、小型のハンガーラックにはファンシーな色の傘やバッグなどの小物がかけられていた。

 フォトフレームには、在りし日の写真が幾葉もおさめられている。無心にかき氷を頬張る様子、絵を描く姉を楽しそうに見つめる姿、おしゃまな感じで頬杖をついて浮かべた笑顔……。写真のなかの幼い女の子――宮崎花梨は、2016年に発生した熊本地震の犠牲者のひとりである。

 花梨の母、宮崎さくらは、遺影に手を合わせた私に語りかけた。

「生きていれば、ちょうど九歳です。小学3年生になっていました」

 さくらは、愛娘についてゆっくりと振り返る。熊本の方言だろうか。淡々としながらもふとした瞬間に語尾を少しだけ伸ばす口調が、母親らしい優しさと温もりを感じさせる。

 彼女は、遺品を飾ったスペースに目をやった。

「片付けたり、整理したりすると花梨に悪い気がしてしまうんです。片付けたら花梨はどう感じるかなって。もしも『私のこと忘れちゃったの?』と思ったらかわいそうだから……。花梨が亡くなってから、主人と私、長女の柑奈の三人で暮らしているんですが、ご飯はずっと4人分つくっています。お姉ちゃんにお菓子を買うときも、同じお菓子を二つ買ってしまう。そうしないと私自身が落ち着かないんです。花梨が亡くなったから、お菓子はひとつでいい、ご飯は3人分でいいとはどうしても思えなくて……」

 花梨の命日は、2016年4月21日。熊本地震本震の5日後である。

 4歳の早すぎる死だった。

                          (宮崎家のリビング 2020.10.22)

最悪の結末

 私は、2004年の新潟県中越地震をきっかけに、2008年の岩手・宮城内陸地震、東日本大震災、熊本地震と発災直後に被災地に足を運んできた。町が壊され、命が喪われた現場に何度も通った。

 当初は、直後の破壊に目を奪われたが、やがて気づいた。自然災害により、大切な人や日常を奪われて、喪失感や絶望を抱えながら、心身の健康を少しずつむしばまれていく人たちが少なからずいるのだ、と。

 自然災害で犠牲となるのは、直接的な被害をこうむった人だけではない。災害にかかわる様々な場面で、人は傷つき、心を痛め、目に見えないダメージを受ける。

 最悪の結末が、死だ。

 大災害を生き延びたにもかかわらず、避難生活の影響で持病が悪化して死期を早めたり、大切な人を亡くしたりした喪失感から心身に不調をきたし、自ら命を絶つ人もいる。

 そうした悲劇を、災害関連死と呼ぶ。

 私が災害関連死に関心を抱いたのは、3・11から1年ほどが過ぎた時期である。被災地で暮らす知人が突然、亡くなった。自死が疑われた。そのころ被災地で自死について頻繁に耳にするようになった。また3・11をきっかけに知り会った被災者のひとりが、急に体調を崩し、障害を負った。

 大災害を生き延びた人が、なぜ自ら命を絶たねばならなかったのか。なぜ、障害を負うほど健康を害したのか。調べていくうち、災害関連死に行き着いたのである。

 1995年の阪神・淡路大震災後に、災害関連死という言葉が日本ではじめて登場した。以降、26年間で自然災害の直接的な被害で命を落とした犠牲者は約2万人。対して、災害関連死は約5000人を数える。

 揺れや津波、洪水、土砂崩れなどの直接の被害は免れたものの、その後、5000人以上が命を落としたのである。これから本書で検証していくが、おそらく5000という数字は氷山の一角に過ぎない。

 熊本地震では、直接死は50人だったが、災害関連死は直接死の4倍を越える212人に上った。花梨もそのひとりである。

 調べるなかで、宮崎さくらと夫の貴士が災害関連死について積極的に発信していると知り、秋雨にぬれる熊本県合志市を訪ねたのは2020年10月下旬のことだ。

 いまも、家族は新しい一軒家が並ぶ住宅街に暮らしている。公園や子どもが遊べる小さなスペースがあちこちにある、子育てがしやすそうな町だった。

 観測史上はじめて二度も震度7の揺れにおそわれた熊本地震から4年6カ月が過ぎていた。それは、花梨が短い生涯を閉じてから、宮崎家に流れた歳月でもあった。

「アナと雪の女王」が好きな女の子

 北海道札幌市生まれで熊本市育ちの貴士と、熊本市出身のさくらは、同じ1979年生まれ。専門学校卒業後に就職したデザイン関連会社で出会って、結婚した。2009年に長女の柑奈が生まれ、2年後に次女、花梨が誕生した。

 小柄だった柑奈に比べ、花梨は見るからに健康そうな赤ん坊だった。しかし、生後すぐの検査で、心臓の雑音が確認される。詳しく調べて、完全型房室中核欠損症だと診断された。心臓に小さな穴が空いているという。

 とはいえ、生まれたとき100人にひとりは心臓に異常があると言われる。珍しい疾患ではない。自然治癒する場合もあれば、手術で根治するケースもある。運動を制限して服薬を続けたり、ペースメーカーを装着したりしながら日常生活を送る人は少なくない。

 医師は、手術して心臓の穴さえ塞げば、根治し、幼稚園にも学校にも普通に通えると話した。花梨が最初の手術を受けたのは、生後2カ月後のことだ。

 鼻に装着し、酸素を供給するチューブを手放せない花梨だったが、疾患を抱えているとは思えないほど、元気に育った。家では、歌って踊り、姉の柑奈が公園に行く、と家を飛び出せば、三輪車であとを追った。近所の子どもたちと同じように一緒に走り回り、滑り台を滑り、ときには山登りもした。

「アナと雪の女王」が大好きな明るく、屈託のない女の子だった。

幼稚園に通いたい

 2015年10月、4歳になった花梨にはひとつの目標ができた。翌年の4月から、姉の柑奈と同じ幼稚園に通うこと。そのためには、1月末に手術を受けて、入院しなければならない。過去2度の手術を経験した花梨にとっては、最後の手術になる予定だった。

 花梨は、幼稚園という新たな世界に、胸を高鳴らせて、楽しみにしていたに違いない。

 術後も経過観察で酸素供給が必要だが、夏になれば、チューブを外し、健康な子どもたちとまったく同じ生活ができる、はずだった。花梨だけではなく、貴士とさくらもそう信じて疑いもしていなかった。

 2016年1月27日、小児心臓外科がある熊本市民病院で行われた手術は成功したが、予後が思わしくない。ICUには家族は入れない。4歳の子どもにとっても、看病する家族にとっても、不安を抱えた闘病生活が続いた。

 1週間ほどICUで過ごした花梨は、家族と時間を過ごすために一般病棟に移るが、合併症を発症する。小児の症例が珍しい間質性肺炎だった。大人への治療を参考にし、人工呼吸器を装着し、睡眠剤で眠らせながら投薬などを行った。しばらくすると薬の副作用で腎臓に負担がかかり、人工透析を余儀なくされる。

 当初、血液透析という方法だったが、思うように改善しない。そこで4月14日、身体への負担が少ない腹膜透析に切り替えた。特殊なフィルターを搭載した機械で、血液中の老廃物や不要な水分を取り除く血液透析に対し、腹膜透析は患者自身の腹膜を透析膜として利用する手法である。

 その選択が、夫婦に希望をもたらした。症状に明らかな改善が見られたのである。

 けれども、その日の午後9時16分、震度7の揺れが熊本市をおそう。

 さくらは合志市の自宅で被災したが、仕事で外出中だった貴士が熊本市民病院に急いでた。夜間であり、娘には会えなかったが、症状に異常はなかった。まだ予断を許さない状況だったが、貴士とさくらはひとまず胸をなで下ろした。余震は続いていたが、熊本が2度も震度7の激震におそわれるとは想像すらしていなかったのである。

2度目の震度7

 震度7から28時間が過ぎた4月16日午前1時25分。不測の事態に備え、病院から近い熊本市内の生家に宿泊したさくらは、突き上げるような振動で目を覚ます。揺れが激しすぎ、動けない。停電で町から一切の明かりが消えた。おさまったかと思った瞬間、すぐに余震に見舞われる。入院中の娘を思うが駆け付けられる状況ではなかった。そんなさなか、主治医から電話があった。

「転院に承諾してください」

 医師は切迫した口調で語った。余震のさなか、ほかの病院に移すのは危険なのではないか。そう考えたさくらは「病院に残してください」とお願いしたが、医師から信じられない言葉が返ってきた。

「病院が倒壊する恐れがあります」

 午前3時ころ、熊本市民病院は、外来診療だけでなく、入院治療も停止し、すべての患者の転院を決定する。

 本震から約6時間後の午前7時30分ごろ、さくらは市民病院二階のICUにようやくたどり着いた。

 病院に残る入院患者は、花梨ひとり。さくらは、本震後に娘の命を守ろうとする医療スタッフの姿を目の当たりにする。

 余震のたび、医師や看護師たちは花梨の小さな身体に覆い被さり、点滴や医療機器が倒れないよう身を挺した。子どもからの電話に対して「ごめん、パパはお仕事でまだ帰れないんだ」と話した医療スタッフも、懸命に花梨の治療にあたっていた。災害医療の現場のただなかで、彼女は切実に願った。

 先生も看護師さんもみんな私たちと同じ被災者で、みんな大切な家族がいる。ここにいたら花梨だけではなく、先生や看護師さんみんなが危険にさらされてしまう。みんなが安全な場所にできるだけ早く避難してほしい。

 花梨の転院先は、福岡市の九州大学病院に決まっていた。けれども人工呼吸器を装着しているうえ、10本の輸液ポンプが必要だったために、病院に待機する救急車での搬送が難しかった。

 花梨をどう搬送するか。

 ドクターヘリや、自衛隊の大型救急車での搬送も検討されたが、実現にはいたらなかった。だが、病院の救急車が搭載する医療機器などを下ろすと、輸液ポンプを積むスペースをつくれるとわかった。それでも人工呼吸器は積み込めない。

 正午前、花梨を乗せた救急車が、病院を出発する。人工呼吸器の代わりに、主治医が手動ポンプで酸素を送りながら福岡を目指したのだ。

 救急車は、花梨の身体に負担を掛けぬよう、二度の激震でダメージを受けた町を慎重に進んでいく。自家用車で救急車のあとを追いながら、さくらは九州で一番の設備が整う九州大学病院なら、劇的に快復するはずだ、と信じていた。

 救急車は、ふだん1時間半ほどの道のりを約3時間かけ、九州大学病院に到着した。ホッとしたさくらだったが、検査を終えた医師につらい現実を告げられる。

「熊本に帰れる可能性はほとんどありません。あったとしても数%……」

 彼女は、当時の複雑な気持ちを口にする。

「それまで、ダメかもしれないなんて、まったく思っていませんでした。でも先生の話を聞き、覚悟しました……いえ、まだ数%の可能性が残っている。一緒におうちに帰れるかも知れないという希望は捨てられなかった」

 搬送中、腹膜透析を中断したせいで、花梨の全身はいままで見た経験がないほど、むくんでいた。九州大学病院で、ふたたび血液透析に切り替えた。

「身体のあちこちの動脈に何本も何本も点滴をさすんです……。それがかわいそうで……」とさくらは腕や首をさするような仕草をして、ぽつりとこぼした。

「あとは、日に日に……」

 花梨が息を引き取ったのは、転院から5日後のことである。母は、病と災害と闘った幼い娘に、いたわりの声をかけることしかできなかった。

 よくがんばったね。偉かったね。早くおうちに帰ろうね……。

        山川徹著『最期の声 ドキュメント災害関連死』(KADOKAWA)より


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