【過去の事例】突きつけられた〈関連性なし〉①―3・11
災害関連死とは何か
国道45号が通る広田湾沿いの区間は「高田バイパス」と呼ばれている。かさ上げされた沿岸部を北上していくと、右手に岩手県陸前高田市のシンボルとなった奇跡の1本松が見え、東日本大震災津波伝承館、道の駅高田松原、慰霊の場などを集約させた高田松原津波復興祈念公園が広がる。
町の風貌は、一変していた。東日本大震災前の町並みを思い浮かべようにも、なかなか像を結ばない。
2020年11月中旬、コロナ禍のなか約5年ぶりに陸前高田市に足を運んだ。3・11後からテーマとして取り組んでいる災害関連死の遺族に話を聞くためである。
「高田バイパス」を内陸に向かってそれると、歩道に〈避難路〉〈「この道を より高い所へ 駆け上がれ!」〉と銘が刻まれた碑が建立されていた。「ハナミズキのみち」と名付けられた津波発生時の避難路である。
陸前高田市では、3・11により、1757人が犠牲になった。うち、42件が災害関連死に数えられる。
災害関連死とは、端的にいえば、避難後の死だ。
津波や土砂崩れ、家屋の倒壊など、災害の直接的な被害ではなく、避難中の疲労や、生活環境の悪化などで、病気にかかったり、持病が悪化したり、自ら命を絶ったりして死亡したケースである。
阪神・淡路大震災ではじめて災害関連死が認定されて以来、地震や豪雨災害などで、5100件以上が災害関連死と認められている。東日本大震災の犠牲者は、15,900人。そのなかには、3775人の関連死者が含まれる(2021年3月時点)。死者の約17%が震災後に命を落としたのである。
弁護士の在間文康さんは、災害関連死の意義について次のように話していた。
「災害関連死とは、適切な支援やサポートがあれば救えた命です。逆に言えば、災害関連死の事例が、被災者がどんな状況に置かれ、どんなサポートを必要としたか、教えてくれます。適切な表現かはわかりませんが、災害関連死は、社会の財産とすべきだと考えています。いま日本で暮らす誰もが被災者になり、命を落とすかも知れない。災害後、どんな経緯を辿って、命を落としてしまったのか。いつどんな支援があれば、救えたのか。ひとつひとつ見直していく作業が、次の災害で命を救う手がかりになるんです」
3・11前、東京で弁護士として活動していた在間さんは、2012年3月に新設された「いわて三陸ひまわり基金法律事務所」の所長として、弁護士がいなかった陸前高田市で暮らしはじめた。4年後、東京にもどって「そらうみ法律事務所」を立ち上げた。弁護士過疎地域のサポートを目指し、東京のほか、陸前高田市や久慈市、沖縄市や奄美大島、石垣島などにも事務所を構え、いまも被災者を法の面から支えている。
いまや、災害関連死にもっとも詳しい弁護士のひとりとなった在間さんだが、被災地で働きはじめた当初は「とくに強い問題意識はもっていなかった」と語る。そんな在間さんが、災害関連死と正面から向き合うようになったきっかけが、遺族の声だった。
「3・11がなければ、家族は死ななかった」
遺族がそう考えていても、必ずしも災害関連死と認定されるわけではない。行政が下した〈関連性なし〉という結果に納得できない遺族も少なくない。そんな人たちが、町で唯一の弁護士だった在間さんを頼り、〈いわて三陸ひまわり基金法律事務所〉と掲げられたプレハブ事務所を訪れるようになったのである。
では、被災地の死が、災害関連死に認定されるにはどのような手続きを踏まねばならないのだろうか。
まず遺族が市町村の窓口に出向き「災害弔慰金支給」の手続きをしなければならない。「災害弔慰金」とは、災害遺族の心痛や悲しみに対する市町村からの見舞金である。生計を担っていた人の場合は500万円、それ以外は250万円が支給される。
災害関連死に認められるかどうか。それは災害弔慰金が支給されるか否かだけの問題に止まらない。
認められれば、慰霊碑などに3・11の犠牲者として名前が刻まれ、残された家族は遺族として行政が主催する慰霊祭などに招かれる。また、遺族や遺児として、ひとり親世帯へのサポートや、災害遺児向けの奨学金などの支援が受けられるようになる。
(陸前高田市 2011年4月7日) 審査の壁
もちろん申請のすべてが災害関連死と認められるわけではない。申請後、その死と災害との関連性を検証する審査委員会が開かれる。メンバーは、行政の担当者、医師、弁護士ら5、6人。ちなみに在間さんも、岩手県山田町の審査委員をつとめていた時期がある。
審査の結果、災害との関連性があるとされれば、弔慰金が支払われ、災害関連死と認定される。
なかには、行政の判断に納得できず、裁判に踏み切った遺族もいる。
震災から9カ月後、五七歳の夫を亡くした岩手県陸前高田市の川澄恵子さんである。
「もうすぐ10年になりますが、時々、立ち止まって思うんです。私はただ主人――優さんの死をもっときちんと調べてほしかっただけなんです。優さんは震災さえなければ、いまも元気だったはずですから」
川澄さんとは陸前高田市で会えずに、2020年12月上旬に東京都渋谷の「そらうみ法律事務所」で、オンラインで話を聞いた。川澄さんはいま、ふるさとの陸前高田市を離れ、宮城県大河原町で、三女と2人で暮らしている。
川澄さんの言葉は、6年前を想起させた。
2014年10月、盛岡地方裁判所。陸前高田市に対する〈災害弔慰金不支給処分取消等請求事件〉の証言台に、原告の川澄さんが立った。
「あの震災がなかったら、と思うのは、家族にとって当然の気持ちです。それは私だけではありません。その気持ちを伝えるべきだと思いました。諦める人もいるだろうけど、私はそういう人間じゃないから」
49歳だった川澄さんの訴えが、しんとした法廷に響く。黒のパンツスーツ姿で背筋を伸ばして証言する川澄さんの表情がこわばっているように見えた。生まれ育ったふるさとを相手に訴訟を起こす。その決断の重さを感じさせる表情だった。緊張からか、声も固い。だが、だからこそ、発せられる一言、一言が傍聴する人たちの胸に刺さった。
それから6年が過ぎている。パソコンの画面に映し出された川澄さんは、ゆったりとした穏やかな笑顔をしていた。
(陸前高田市 2011年4月7日)
土がない東京はイヤだな
なぜ、川澄さんはふるさとを訴えなければならなかったのだろうか。誰だって、生まれ育った町を相手に訴訟を起こしたくはない。それゆえに、川澄さんが体験した3・11をたどると、災害関連死をめぐる問題が凝縮されているように思える。川澄さんは次のように語る。
「たくさんの素敵な人たちに出会った、ふるさとですからね……。でも、どうしても市の判断には納得できなかった。自分で決めたことだから、最後まで正々堂々とやろうと」
川澄さんは1965年に陸前高田市に生まれた。高校卒業後に上京し、リサイクルショップや運送業などを営む企業に就職する。職場で出会ったのが、のちに夫となる優さんだった。東京出身で、10歳年上の優さんは名前の通り、とても優しい人だった。やがて優さんは川澄さんにとって「理解者」とも呼べる、かけがえのない存在となる。
2001年に陸前高田市に居を構えた2人は、リサイクルショップの経営に乗り出した。店舗は、避難路として整備された「ハナミズキのみち」の近くだったらしい。しかし、いま、10メートル近くもかさ上げされて、震災前の面影は見られない。
夫婦は、3人の娘を育てるために懸命に働いた。優さんは小学2年生のときに父を、大学時代に母を亡くしている。彼は、陸前高田市で生活していた川澄さんの父と母を実の両親のように、慕い、大切にした。
2011年3月11日、いつものように優さんはリサイクルショップで働いていた。一方の川澄さんは、年度末の確定申告などを済ませるために、高台の住宅地にある市営住宅に帰っていた。
揺れと津波が町を襲う。
家族5人が自宅に揃ったのは翌日のことだ。リサイクルショップは流失してしまったが、自宅は無事だった。
しかし川澄さんの両親と連絡が取れない。優さんは、翌日から義理の父母と祖母を瓦礫のなかに探したが、20日後、3人は遺体となって発見される。
「優さんは、父と母が亡くなったのがなによりも辛かったんだと思います。でも私も悪かったんです……」と川澄さんは後悔をもらした。
被災直後から川澄さんは同級生が営む建設会社に頼まれ、瓦礫撤去の手伝いなどをはじめた。
「3人の子どもと夫もいるのに、母としての、妻としての役割を果たさずに働いていた。銀行への支払いもあるし、私が少しでも稼がなくては……と。いま振り返ると、動き回って、人と会って不安を紛らわせていたんだと思います。毎日、本当にヘトヘトになるまで働いて……」
優さんに「布団に入って30秒で寝ているよ」と冗談半分にあきれられたのを覚えている。
唐突にあらわれた非日常のなかで自分を保ち、両親と祖母を亡くした喪失感を埋めるには、常に動き続けるしかなかったのかもしれない。
「もしも地震がきて、すぐに実家に迎えに行っていれば、みんな助かったかもしれません。いまもふと、もっともっと危機感をもって行動しておけば、と考えてしまうんです。なにもかも、もう取り返しがつかないのですが……」
ある日、川澄さんは優さんに声をかけた。
「もう東京に帰ろうか」
店の再開は見通しが立たない。実家も流されてしまった。残ったのは5人の家族と市営住宅だけ。陸前高田市に残っても先が見えない。優さんの生まれ故郷でもある東京に行った方が、活路が開けるのではないかと感じたのである。
けれど、返ってきたのは意外な答えだった。
「ぼくは土がないとイヤだな」
陸前高田から引っ越すなんて、まったく考えていない様子だった。
リサイクルショップの流失に加え、義理の父母と祖母の死に直面し、気落ちしていた優さんだったが、生活再建に向けて動き出していた。家財道具を失った常連客からリサイクルショップの営業再開の要望があった。また生活費だけではなく、大学進学を希望する長女の学費なども必要だったからだ。
優さんもまた国や行政の〝公助〟に頼らずに〝自助〟で生活再建を果たし、営業再開までこぎ着けなければならない状況に置かれていたのである。
川澄さんは優さんの人柄を偲ばせる回想をした。正義感が強く、周囲に頼られる男性だったという。
震災直後、川澄さんの妹が、近所の公共施設に足を運んだときのことである。子供用の下着や食料などが配られていた。妹の家無事だったが、あの津波を経験し、見通しが立たないなかを生き抜こうとする被災者である。当然、受け取れるものだと列に並んだ。しかし担当者は「家を失っていない人には渡せない」とにべもなく断った。
あまりの悔しさに妹は、優さんに泣く泣く訴えた。優さんは、すぐに公共施設に出向き「同じ町に暮らす、同じ被災者じゃないか」と担当者に抗議した。被災者のなかにも、目に見えない線引きがなされ〝公助〟の枠組みから外れた人々の心を傷つけていたのである。
5月になると優さんはリサイクルショップを再開しようと、仮設店舗を開設するプロジェクトに申し込んだ。しかし建設事業が一向にはじまらない。
夏が過ぎ、秋になっても、建設工事がはじまる気配はなかった。当時、優さんは過労やストレスが原因とされる帯状発疹に悩まされていた。にもかかわらず、自ら仮設店舗予定地を整地しようと、重機の免許を取るために自動車学校に通いはじめる。仕事をしたくても、できない焦り。先行きが見えない不安。夫として、父として家族を守らなければ、という責任感。娘の希望をかなえて大学に通わせてあげたいという思い……。その心情は察するにあまりある。
「それでも弱音は吐きませんでした。震災前はよく弱音をちょこちょこ吐いていたんですよ。『カゼ引いちゃった』とか『ちょっと熱っぽい』とか」
川澄さんは苦笑いして、そう振り返る。
「ただ震災のあとは一切、弱音を口には出さなくなりました。私もそうでしたが、波に飲まれてしまった人を思うと、これくらいのことで、とガマンしてしまうんです」
震災前は夜11時頃に床につく優さんだったが、夜9時頃には寝てしまう日が増えていく。
11月下旬、優さんは胸に強い痛みを訴えた。県立高田病院で、急性心筋梗塞の手術を受ける。手術は成功し、医師は「もう退院してもいい」と言うが、熱が一向に下がらず、声もかすれている。1カ月が過ぎても快方に向かわない。川澄さんが再検査をお願いすると、合併症を発症し、心室に穴が空いていることが明らかになる。すぐに盛岡市の岩手医大病院に救急車で搬送され、緊急手術を受けた。
12月24日、クリスマスイブに娘たちを連れて、お見舞いに訪れたが、すでに優さんに意識はなかった。
けれども、と川澄は続ける。
「まさか、命にかかわるような容態だとは思っていなかったんです。大船渡病院の先生も退院できると話していました。それに昔、胃がんの手術を受け、入院したことがありましたが、あのときも元気に帰ってきましたから」
川澄は、自分に言い聞かせるように、娘たちに話した。
「優さんのことだから『心配しなくても、大丈夫だよ』と、また元気になるよ」
しかし母娘の思いは届かなかった。二日後に容態が急変する。
12月28日2時45分に帰らぬ人となる。
享年57。家族にとっては突然の、早すぎる死だった。
『震災学vol.15』(東北学院大学)山川徹「社会の財産とすべき死」より
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